南アルプスと中央アルプスの合間に位置する長野県の伊那谷。寒天製造で全国シェア80%を誇る伊那食品工業は、多様な産業分野の課題解決を支える業務用寒天と身近な家庭用寒天『かんてんぱぱ』シリーズを製造販売する研究開発型企業です。その特徴は、着実で持続的な発展こそをめざす「年輪経営」、そして「社員ファースト」の経営哲学。半世紀以上にわたりこの哲学を実践し、全国の経営者から信望を集める最高顧問・塚越寛さんと、その理念を受け継いだ代表取締役社長・塚越英弘さんにお話を伺いました。
―御社は業務用寒天から家庭用の『かんてんぱぱ』シリーズなど、幅広い展開をされていますね。『かんてんぱぱ』は家庭向けのブランドとして定着しています。
塚越寛最高顧問/「かんてん」に何か言葉をプラスして親しみやすい商品名にしようと考えました。当時、人気のあったテレビ番組のワンコーナー「減点パパ」をヒントにしました。狙いどおりヒットし、現在のように長野県内の各家庭に浸透していきました。
しかし、メインはあくまでも業務用です。家庭用は全体の30パーセント程度という現状を維持していく方針です。一般消費者向けの販売網は、長野県内では各スーパーなどに置かれていますが、他県では自社で展開するショップが中心です。全国への流通という点では大手スーパーとの取引きはしていないのです。
―業務用寒天の展開は世界を視野に入れる一方で、家庭用商品の全国展開はさほど志向していないという意図はどこにあるのでしょうか?
塚越英弘代表取締役社長/『かんてんぱぱ』は長野県内のスーパーで広くお取り扱いいただいていますし、長らくテレビコマーシャルも展開してきました。県内での『かんてんぱぱ』の認知度は97%にも及びます。しかし県外となるとわずか16%。県外の販売は自社直営ショップが中心ですから当然です。ですがそれでよいのです。
塚越寛最高顧問/2005年頃には寒天ブームが起きました。大手スーパーから全国展開を打診されたこともあります。大幅な販売増が期待できましたが、考えた末にお断りしました。急激な売上増は身のほどを超えるのではないか。価格競争にも巻き込まれるでしょうし、ブームが過ぎれば売り上げが急降下するリスクもあります。果たしてそんな〈急成長〉は社員に幸せをもたらすだろうか。わが社の抱く経営理念とは合致しないのではないか――。そう考えました。
―成長という概念は「年輪経営」という御社の経営哲学につながります。この信念は、トヨタ自動車の豊田章男社長も敬意をもって「私の教科書」と表現されていますね。
塚越寛最高顧問/例えばヒノキは材木として利用できるようになるまで50年も60年もかかりますが、ポプラはあっという間に大木になります。樹種によって成長度合いはまったく異なります。企業の場合も、急成長すべきなのか、あえてそれを目指さないのか、考え方はいろいろあっていいのです。しかし、それを支える価値観に誤りや揺らぎがあったりしたら、必ず立ち行かなくなります。
大切なのは、どんな企業でも木のように毎年少しずつ成長を続けること。前年よりも今年、今年よりも来年、それが「年輪経営」です。当社は60年近くずっと右肩上がりで進んできました。しかし成長の定義は売上高だけではありません。実績が経営者の価値観にしっかり則したものなのか、それこそが成長の尺度です。当社の場合は、社員の幸せを第一にしたい。そして、仕入先や買ってくださるお客様の幸せも考えたい。木の年輪が外から眺めただけで分からないのと同様に、企業にも数字に表れない価値や理念というものがあります。「価格競争をしない」「つくりすぎない」「売りすぎない」。たくさん買ってくれる企業よりも、当社の考え方と合致した企業に買っていただきたいという方針を貫いてきました。
塚越英弘代表取締役社長/これほど数値目標を持たない会社もないでしょう。今年の目標は何億円、将来は何億円など、会社として数字を掲げることは一切ありません。もちろん社員一人ひとりはきちんとした目標を持って研究開発なり製造なりをしています。じわじわと伸びていく会社全体の実績が、社員一人ひとりの仕事に対するモチベーションや将来への希望につながっていると実感しています。
―御社は50期近く連続増収増益を果たしながら国内のトップブランドに成長されましたが、これまで経営されてきた中でのご苦労などをお聞かせいただけますか。
塚越寛最高顧問/私は1958年、21歳で入社した時、会社は経営破綻寸前でした。寒天の原料である海藻が不足し、なかなか会社の成長が望めない状態でした。当時、寒天メーカーが全国に50社以上もあるなか、伝統的食品であるだけに業界は古くからの取引を重視する傾向にあり、最後発である当社が既存の取引先に割って入るのは容易ではありませんでした。
そこで、市販の粉末ジュースの成分を分析して新商品の研究開発を試みました。当社のような後発企業が伸びるには基礎研究や製造技術の開発に力を入れることが重要だと考えていました。この粉末ジュースはまずまず売上を伸ばしましたが、1969年に人工甘味料が使用禁止となったことで製造をやめざるを得なくなりました。
1970年頃には南米のチリから原料を確保できることが分かり、インドネシアでの養殖を進めるなど原料確保の見通しも立ち始めたので、業務用寒天の製造に力を入れ始めました。
1970年代後半からは、粘りやとろみを持たせる多糖類など他の物質と寒天を混ぜて新たな物性を生み出すことを積極的に展開し、新たな業種の顧客を開拓するかたわら、家庭で手軽にデザートを作れる粉末寒天『かんてんぱぱ』シリーズも発売しました。
近年は海洋環境の変化によってまた国産原料が不足してきています。原料の長期的な確保も変化を求められているなかで、さらに多様な製品の開発を進めています。
―600人ほどの社員のうち実に10%が研究開発部門所属とお聞きしました。新商品開発や品質向上の取り組みについてお聞かせください。
塚越英弘代表取締役社長/寒天はゼリー強度の高いコリコリした食感のものから、飲料に使用できるペースト状のもの、ゼラチンのように弾力のあるものなど、いかようにも要望に応えられます。また、寒天はゲル化剤や増粘剤として、医薬品や化粧品、化成品など多様な産業分野で利用されています。はく離性向上やコーティングなども含め、お取引先の課題を解決できるよう、「異物や微生物」の管理を徹底して最適の寒天を製造する環境を整えています。
研究開発製品の改良や新商品の開発を研究するR&Dセンターのほか、南アルプスの豊かな地下水を利用した2つの工場で多様な製品ラインを稼働させています。
―社屋や研究所、工場周辺の敷地を「かんてんぱぱガーデン」として整備し、一般にも開放されていますね。
塚越英弘代表取締役社長/かんてんぱぱガーデンには、寒天製品を素材として提供するレストランや蕎麦屋、カフェや食のセレクトショップを擁する新しい複合施設「モンテリイナ」、地域のイベントにも活用できる「かんてんぱぱホール」などもあります。南アルプスと中央アルプスに抱かれた伊那谷の四季折々の風景が楽しめる憩いの場です。
塚越寛最高顧問/伊那谷は風光明媚でよいところなのに、観光に来たみなさんの滞在時間が短いのが残念でした。もっとここに滞在してほしい、私たちの商品を知ってほしいという思いから、かんてんぱぱガーデンを作りました。観光地にすることを目指したわけではありませんが、結果的にみなさんが集ってくれるようになりました。
敷地内はもちろん、通勤路も含めて、社員が率先して清掃しています。会社が指示したわけではないのです。誰がどこを担当するか、今日はどこを掃除するか、ローテーションで決まっているわけでもありません。今ここをやった方がよい、あそこはこうしたほうがよいと、それぞれが気づいて行動しています。自然に気づきの訓練になっています。
―そういう気づきに支えられて、かんてんぱぱガーデンは伊那市の主要な観光名所となっているのですね。
塚越寛最高顧問/人は、気づきの能力を築くことができたら、それが成長した証ですよ。掃除を通して“いかに気が付くか”が大切なのです。清掃のほかにも、マイカー通勤では渋滞を引き起こす右折は極力しないというマナーを徹底しています。それに取り組むことで、自然と地域貢献にもつながっているのです。
―お話を伺っていると社員のみなさんが共通の方向を向いていらっしゃると感じます。それを実現する社員教育、あるいは人材登用はどのようにお考えですか。
塚越寛最高顧問/私が若いころ病気をして苦労しましたので、人間の幸せの土台は心身の健康にあると身に染みています。早い時期から会社が負担して社員全員がインフルエンザの予防接種をし、がん保険に加入してもらうということも実践してきました。また、給与は毎年アップし、利益は賞与として還元しています。経営者が社員一人ひとりの幸せ、健康を第一に考えていることが全員に伝わっているように思います。
塚越英弘代表取締役社長/給与は基本的に年功序列です。掃除のように、多様な部署、多様な年代の社員が一緒に行動することで、例えば若手は年配の社員の経験から学ぶことが大いにあるでしょう。それが互いに良い関係を生んでいます。“体験を共有する機会の創出”は大切にしています。日々のラジオ体操や、地域のイベントとして開催するお祭りもそうです。
社内旅行も盛んです。近頃は社員旅行をしない会社も多いようですが、当社では社員自身が計画を立て、みな楽しみにしています。コロナ禍の影響や円安による経済情勢もあってここ数年は北海道や沖縄に行っていますが、基本的には国内と海外へ交互に行っています。会社が決めたことに従うのではなく、社員が自分たちのために考えて計画する旅行ですから楽しいはずです。企業は遊びにもしっかり取り組むほうがいいですね。
―多くの経営者が御社の理念や戦略を学んでいます。みなさんが最も価値を感じておられるのは何だとお考えですか。
塚越寛最高顧問/社員を大切にすること、そして人間的成長とは何かという考えそのものでしょうか。人間の成長はいかに人のことを思いやれるようになるかです。製造工程の環境改善にしても、社員が快適に仕事できるようになるにはどうしたらよいかを考えた結果です。社員は根本的には一つの家族です。自発的に掃除するのも、一人ひとりが会社のために自分も何かしたいという気持ちがあるからです。
―社員同士のフラットな関係も魅力に感じますが、全社を挙げてそうした風土があるのですね。
塚越英弘代表取締役社長/当社は社員が行動を起こしやすい仕組みになっています。組織でよくあるのは企画書を作って根回しをするなど、決裁を取る手続きに手間も時間もかかります。しかし、うちでは手続きは最小限、無駄なことはやらない。計画の内容を書いて私に渡してくれれば、あとは見積書と詰めの話し合いと、スピーディーです。実行までのハードルが低いと思います。社長室にドアがないので、社員との距離が近いのもあると思います。
―事業を最高顧問から承継されて6年目です。先代から変わったこと、あるいは変わらないこととは。
塚越英弘代表取締役社長/父である最高顧問の理念を踏襲していますので、特に変わりはありません。考え方も変わっていないから安心して引き継げます。社員が幸せになること、その考え方が一番大事で、そのために社員の給料を毎年増やそうとしています。最初は引き継ぐつもりもなく、伊那市出身なのでいずれ戻りたいとは思いながら、8年ほど別の会社に勤めていました。父はいわゆる直感的な経営をしてきました。若い頃はその考え方は古いなどと反発したこともありますが、父が理念を著した本を読んだことで考えが変わりました。それを最も理解して実践できるのは自分しかいないだろうと。
―地方の企業が人材確保に困難を抱えるなか、御社では全国から人材が集まっています。その秘密はどこにあるのでしょうか。
塚越寛最高顧問/私の著書を読み、何かしらの共感を得たことから、当社に興味を持ってこられた方が多いようです。何についてどう考えている会社なのか、就職活動をする若い学生さんたちもそんな理念に引かれて集まってくれていると感じています。
塚越英弘代表取締役社長/企業のトップは自分の確たる信念を明文化しておくのが大事だと改めて思います。ルールやマニュアルで社員の行動を決めるのではなく、そのもととなる基本的な考え方をきちんと教えることによって、社員は自分で考えるようになり、その意識や行動が変わります。人それぞれ、いろいろなパターンがあるので“規則”では100% 網羅しきれません。当社がもつ根本の考えさえ社員に伝えれば、ルールをたくさん作らなくてもよい。それが本来の教育だと信じています。
企業情報
伊那食品工業株式会社
業種 | 製造業
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住所 | 長野県伊那市西春近広域農道沿い |
TEL | 0265-78-1121 |
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